Inventing Handy Constellations
Nobuhiro Shimura and Nakako Hayashi
Photo and Drawing by Nobuhiro Shimura
Text by Nakako Hayashi
Translation by Kei Benger

Nakako Hayashi (以下NH) 「山々が萌葱色に染まる新緑の季節となりました。遡って4月1日、毎月初日に志村さんが恒例とされている山口の市へは参加されましたか?」
Nobuhiro Shimura (以下NS) 「東京に行っていたため残念ながら今月も行けませんでした」
NH 「3月の下旬、22日には志村さんが参加されていた東京都現代美術館での〈未見の星座〉展が終了し、私の家には志村さんのインスタレーション《fountains》の一部であった湯桶がやってきました。展示室の天井から海面と炎の映像をうつすスクリーンとして配置されていた60個の円筒形のかたちをしたものが、実は湯桶であるということは、美術館の暗闇のなかではすぐには気がつきませんでした」
NS 「過去に、バケツに水をはって花火の映像を投影する作品をつくったことがありましたが、今回は湯桶という器を映像のスクリーンに採用するという初めての試みになりました。木製の湯桶という湯浴みの道具を空間に60個配置し、そこには水をはらずに、映像を木肌に直接投影しました。日本人がながらく暮らしのなかで普通に使ってきたものが、今ではプラスティック用品の存在によって相対的に高価なものとなり、嗜好品のようなものへと推移してしまっていることにも興味がありました」
NH 「たしかに表参道などのブティックでは、木製の湯桶が衣服やインテリア小物、オーガニックな化粧品と並んで陳列されているさまを目にします。でも私はそういった店頭で、湯桶を買うことは思いつかなかった気がします。ですが志村さんが展示を終えたあと、湯桶を欲しい方に配る桶屋を始めたと伺って、私も名乗りをあげました。ほかにも展示に関わった方や志村さんのお友達など、生活のなかでこの湯桶を手にした方がいたわけですね?」
NS 「現実的に、60個もの湯桶を保管しておく場所がなかったということもありますが、身近な人が現代の暮らしのなかで実際にどう湯桶を使いこなせるのかということに興味があったからです。展示が終わってからまだ約1ヶ月ですが、水回り以外でもランプシェードとして使ってみたいとか、小物入れとか、すでにいろいろな提案が出てきていて楽しいです」
NH 「志村さん自身は、展覧会が終わってから、この湯桶をどのように使っていますか?」
NS 「今住んでいる地域が山口の温泉街なので、湯につかりたいときはそちらに行ってしまいます。日本人のライフスタイルが近年劇的に変わってきているように、僕も普段の生活では、シャワーですますことがほとんどです。風呂場で湯桶を使う場面が生活のなかに無いわけですが、朝の洗面や髪を梳かす際に、湯桶に水をはって使うことを思い立ちました。すると、無駄に水を流しすぎることもありません。また木の香りもしてきて、朝のはじまりにはとても心地がよいことに気がつきました。大きさも関係していると思いますが、ここまで使う人の直観に委ねて自由に使える器だとは、使ってみる前には思いもしませんでした」
NH 「志村さんから湯桶を最初に受け取った日は、表参道で桶の受け渡しをしました。その時は二人とも、都心で桶を受け渡すことが、なんとなく気恥ずかしい感じがしたものです。一度家に持ち帰り、机回りの小物入れとして使おうと出しておくと、息子がきて『お風呂で実際に使いたい!』と言い出して、結局2個目の湯桶も志村さんから譲り受けました。その受け渡しを目白駅のちかくで行ったときは、周囲に楽しい仲間もいて、みんなが桶を実際に手にとったりしながら、駅までの道を一緒に歩きました。その時改めて思ったことは、湯桶を手に取るときの触感の柔らかさです。皮や布の鞄とはまったく違う温かみと柔らかさ。古本の挿絵で、湯桶を一つかかえて、銭湯に湯浴みに行く人を描いた絵を見た事がありますが、絵の中の人の感覚が自分のなかにも立ち上ってくるようでした」
NS 「湯桶を実際に手にした人からの多い反応は、まず香り、そして手ざわりです。とくに角や縁の部分の滑らかさに注目する人が多いですね。100円ショップなどで豊富にあふれるプラスティックの製品に慣れてしまい、そちらのほうが当たり前になってしまうと、逆に木の湯桶に触れる体験が新鮮になるわけですね。日本の暮らしに長いあいだ息づいてきて、途絶えつつあるとはいえ今も人の手で作られている木製の日用品は、古き時代のノスタルジーの対象ではなく、今それをどう見て、どう使いこなすか、という自分たちの感覚を刺激してくれる存在なのではないかと思います」

近年の日本人の生活変化は、とりわけ都市部の住居空間において変化が著しい。都市部に限ったことではないが、気密性の高いマンションが増えたことにより、多くの時間を密閉された空間の中で生活する人口が増えた。かつてはすきま風の吹く木造家屋が当たり前だった日本でも、マンションの生活になると、湿度の高い風土にもかかわらず、浴室は構造上風が通り抜けにくい場所に配置されがちだ。だから、黴の温床になりやすい。そのことにも多いに左右したのか、湯浴み製品はプラスティック製が当たり前となって久しい。私も昨年秋に転居した際には、悩み抜いたあげくに、水切れし易さをデザインに取り入れたプラスティックの入浴製品を買い揃えた。その半年後にアーティストとの対話から、自宅の浴室に木の湯桶がやってくるとは予想もしなかった。実際に使いはじめて気がついたのは、その大きさが人の手に、身体に、とても合っているということだった。高さ115ミリは片手で掴むのにちょうどよく、内寸直径210ミリは普段使いする一枚の皿(日本の民藝品にあてはめれば、7寸皿)と同じである。この桶と皿のサイズの一致は、実際に志村が《fountains》を製作中に得た気づきであった。ちなみに湯桶は工業生産品ではなく、職人の手により産み出される手工芸品である。
インスタレーション作品に使用された湯桶。私はおそらくそれらは、次回の展示のために保存されるのかと思っていた。しかし志村は、それを身近な知人に配ることを選んだ。彼にその意図を確認すると、「真っさらな湯桶」というモノは、経年変化を許容しながら楽しむことができる存在であること、そのモノの素材に含有される「余白」が、知人の生活のなかで「育つ」さまを見てみたい、というアイデアがあったことを知った。私はまた、彼との対話のなかで、自らも朝の支度である洗面に、「蛇口をひねれば流れつづける水をそのまま使うのではなく、湯桶に一度水を張り、洗面する」という行為を取り入れてみようと考えた。日常の作業のやり方を一つ、変えてみる。すると毎朝木の香りや水を張った水面にむきあうことは、一日のはじまりにふさわしい精神的な営みになることを、知ったのだった。
気分を変えて、自分を別なモードにもっていくための工夫を、私たちは普段から行っている。茶を飲む、香や草花の匂いをかぐ、等。湯桶に端を発したエピソードでは道具に導かれながら、日常の営みを精神的な行為へと変換できることの気づきを得たことが、面白いと思った。身近な生活のなかで、モノに出会いつつ、あたらしい発見を探していこう、という気持に自分がなっているとき、自分と世界との関わりが、たんなる消費者ではなく主体的に考え、動く人になってきた、という気がしている。そして「今日あの花はなんと綺麗な色で咲いているんだろう」というような、小さなことにポジティブな発見を見出すことが増えた。都市にいると鈍化しがちな感性が、都市にいながらにして動き出したようで、それは自分のなかでもとても嬉しい変化である。
2015年5月9日