パープルのエレンのブログ「
Les Chroniques Purple」で、アーティスト
志村信裕さんと林央子の対話にもとづく連載シリーズ「Inventing Handy Constellations」がはじまりました。
Inventing Handy Constellations
Nobuhiro Shimura and Nakako Hayashi
Photo by Nobuhiro Shimura
Text by Nakako Hayashi
Nakako Hayashi(以下NH) 「2年前の春、山口県に引っ越してから毎月1日、市の中心部にある亀山公園の骨董市に出かけることを習慣としている志村さん。今月は何かに出会いましたか?」
Nobuhiro Shimura(以下NS) 「今月は残念ながら、雨だったので行けませんでした。代わりに自宅にあるものを紹介したいと思います」
NH 「まるで一人のひとのような気配を感じる匙ですね」
NS 「確かに、ひとみたいで愛らしいですね。この竹の匙は島根県の松江に古くからある民藝品店の片隅で見つけたものです。竹細工職人が、目が悪くなってきた晩年からつくり始めたものだと聞きました。残念ながらその方はすでに亡くなっていて、現在の店主は職人の名前も分からず、まさにアノニマスなものとの出会いでした。その店の在庫にあるものがデットストックだと知り、すぐに2本買い求めました。暮らしのなかで使いたいというだけでなく、この竹の匙から学べることや創作のインスピレーションがあるはずだと直観的に思ったからです」
NH 「民藝品店にいくと、箸やカゴや一輪挿しなど、私たちの暮らしで最近見かけることが少なくなってきた竹製の道具を目にしますが、とくにこの匙に心奪われたのですね?」
NS 「竹という素材に以前から関心があったわけではありません。むしろ時代遅れのもだというネガティブなイメージさえありました。この匙を見つけたのも、陶器を扱ったアートプロジェクトのリサーチの途中で、偶然見つけたのがきっかけです。見てのとおり、匙の形や大きさが不揃いなのは、現代の工業製品に囲まれた生活のなかでは、不自然かもしれません。しかし実際に手にとり、使ってみると、それぞれの竹の節を生かした造形だということが分かり、むしろ形が違うのは極めて自然なことだと感じました。手に持った瞬間、節に指がかかることで持ちやすいつくりになっていることが分かります」
NH 「実際に暮らしのなかで使ってみての気づきですね」
NS 「竹は表面が滑らかなだけでなく、抗菌などの浄化作用があるので、食生活で使われる道具としては最適な素材なんだと今では見直しています。また、まっ赤な漆は装飾として塗られているだけではなく、防水性を賦与し、下地を強化させる機能があります。最初は気づきませんでしたが、これほど匙として機能的で、かたちもユニークな生活道具が、伝統工芸でもなく、一地方の職人の手仕事として生みだされていたことに驚きました」
NH 「漆のお椀は、食洗機もわりと普及した日常の暮しではやはり、消えつつある日本人の生活道具ですね」
NS 「最近読んだ『台所道具の歴史』(栄久庵憲司著 1976年)という本には、「日本人の生活にとって、竹と漆は木材に劣らず親しい存在である。むしろ食事に関係する漆塗りと竹製の容器ほど日本的なものは他にないといってもよいであろう」と書かれていましたが、このくだりは特に、この竹の匙のことを集約したぴったりのフレーズだと思いました」
NH 「私も志村さんに教えてもらって同じ本を読みました。プラスティックの道具や最近日本でとくに人気の北欧の器類が生活に溢れるずっと前、成長の早い竹は日本の風土のなかでもとても身近な素材で、とりわけ食事の周辺でよく使われていたということを知りました」
NS 「機械生産によるプラスティックや磁器の生活道具は安価で大量に供給することのできる便利なものです。それに対して、地域から採れる素材をつかい、職人の手によって一つずつ産み出していくものが価値を見いだされずに、刻々と姿を消していることに危機感を感じます。もの本来の価値は、以前の自分のように、新旧のラベリングをすることで見失ってしまうことを知りました。ものは人の生活に寄り添うために生まれてきました。今度は人がものに寄り添うように再び価値を見いだす時代になってきたのではないでしょうか。今ではこの竹の匙でヨーグルトを食べるのが毎朝の喜びになっています」
日本で最古の物語文学といわれる『竹取物語』は、竹を採取し道具をつくりながら暮らしている老人がある日、根もとが光輝く竹を見て、その筒のなかに赤子を見つける、という設定から始まる。彼女は美しい姫となり、幾多の求婚者から求められる存在になる。いっぽう上述の栄久庵の書籍によれば、「竹の身近さ、加工の容易さは、かえって人間に素材としての竹の品位を低いものと感じさせることになった」とある。竹を巧みに扱い、物をつくり出す人々が、尊敬を払われる地位にいたことは、あまりなかったようである。
生活習慣も環境もまったく変わってしまった日本の暮らしのなかで、今も変わらずに存在している竹もある。京都を旅すれば、和風家屋の意匠のところどころ、すだれや垣根をはじめ塗り壁の下地、窓の桟などの建材に、竹が配されていたことに気がつく。また日本のどこにでもある神社の手水舎で、手洗い、口すすぎなどの清めの所作をおこなうための水盤まわりの道具は、多くの場合、竹杓子が置かれている。あたりまえすぎて意識にのぼらないほどであるが、正月に門出の象徴として毎年各戸が門の前に出す門松は、三本の竹を松葉で囲んだものである。
一方で、竹という素材を意識して周囲を見渡してみると、日本の国土面積のほんの一部である都市部をのぞけば、増えすぎて困る植物である。執筆にあたり、エレンとのメールのやりとりで知ったことは、南フランスの田園地帯においても竹は増えすぎてやっかいものの植物だと見なされている、ということだ。成長が早く増えすぎる竹を日常の暮らしに取り戻そうと、割り箸を竹の箸に置き換えようとする試みや、なんとかして竹の利用法を見直そう、という気運がないわけではない。しかしその試みも、増え続ける竹の野生の速度にはいたらないようである。
竹は審美的に見ると美になり、豊富さから見ればチープになり、生活のなかでずっと人の役に立つ身近なものであり、日本においては神聖視されることもあるものである。そこに職人の手が加わることで、ものに生命が吹き込まれた。志村は匙につかわれた竹のなめらかさと、目が見えなくなってきた老齢の職人の手が産み出した触感ゆたかなものの愛らしいかたち、そして、失われつつある竹細工と漆工芸の結合に出会った。それは視覚優先の社会にいきる私たちが本能的にもとめるものとの出会いであり、発見であった。
あたらしく見直すことで、世界は民主的に開かれていく。俗なるもの、ありふれたものは一転して、神秘なる生命(いのち)へ、美なる形象(かたち)へと昇華される。誰も顧みないもののなかに美を発見すること。それはわたしたち自身を遡る、時空をこえた旅でもあり、同時に明日への希望でもある。